ヴィルヘルム・ヴィンデルバント
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ヴィルヘルム・ヴィンデルバント, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=6... / CC BY SA 3.0 • #19世紀ドイツの哲学者 • #20世紀ドイツの哲学者 • #ドイツの科学哲学者 • #カント哲学者 • #新カント派哲学者 • #ルプレヒト・カール大学ハイデルベルクの教員 • #ポツダム出身の人物 • #1848年生 • #1915年没 • ヴィルヘルム・ヴィンデルバント(Wilhelm Windelband、1848年5月11日 - 1915年10月22日)は、ドイツの哲学者。 • ハイデルベルク大学教授で、新カント派の代表。 • ヴィンデルバントの墓 ポツダムでプロイセン王国の官吏の息子として生まれ、イェーナ大学、ベルリン大学、そしてゲッティンゲン大学に学んだ。 • 当初は医学と自然科学を志したが、その後精神科学(今日でいう人文科学)と哲学を学んだ。 • 1870年、ゲッティンゲン大学で学位を取得。 • 志願して普仏戦争に参加した。 • 1873年、ライプツィヒ大学にて大学教授の資格を取得し、1873年夏学期から1876年夏学期までライブツィヒ大学で教鞭をとった。 • 1876年、チューリッヒ大学から正教授としての招聘を受け赴任。 • 1877年にはフライブルク大学に、1882年にはシュトラスブルク大学に移り、そこで長期に渡り教職を務めた。 • 1903年、クーノ・フィッシャーの後継者としてハイデルベルク大学に移り、以来、ベルリン学士院の遠隔地会員となった。 • ハイデルベルクにて没した。 • ヴィンデルバントの墓所はハイデルベルクのベルクフリートホーフ (Bergfriedhof)、森へと続く通路のすぐ側の区画10にあり、簡素な四角の大理石の表にヴィンデルバント本人および妻マルタ、娘エリー・シュトゥッツ・ヴィンデルバントの生没年が刻まれている。 • 哲学史家のフィッシャーに師事したヴィンデルバントはまず哲学の歴史家として、さらにフィッシャーの後継者として、加えて当代の重要な哲学の体系家、その中には彼の師ヘルマン・ロッツェを含めた人々のひとりとして時代の舞台に登場した。 • ロッツェは、存在するものの領域、(カントに習うなら) quaestio facti を事実的認識の条件によって媒介し、妥当するものの領域、quaestio iuris をその認識の活動的条件によって媒介させるとし、quaestio iuris は、 quaestio facti に依存しているとした。 • ヴィンデルバントは、この関係を逆転させ、予め妥当するとされる判断から生まれてきたものは、事実上の(生きた)真理として妥当しているのだとした。 • ヴィンデルバントは、なかんずく自然科学と文化科学(精神科学ともいう)の間の線引き問題にも努力を傾注した。 • 自然科学は、法則定立的 (nomothetisch) な方法を用いる。 • つまり、自然科学は、その対象を普遍妥当的な法則を通して記述する。 • これに対して文化科学は、一回限りのもの、個別的なもの、そして特殊なものと関わり、個性記述的な (idiographisch) 方法をとる。 • ヴィンデルバントは、加えて哲学史家としても卓越している。 • 彼の『哲学史教本』(Lehrbuch der Geschichte der Philosophie, 1892年。『哲学史綱要』『一般哲学史』あるいは単に『哲学史』とも)は、哲学史を各時代ごとのテーマによる論争史として執筆したものである。 • 数多くの版を重ね、哲学的な訓練、修行を必要とする次代を担う哲学の徒によって長く読み継がれてきた。 • 各時代は、哲学者とその教説の羅列ではなく、時代の哲学的な論争テーマを取り上げていく問題史の体裁を採用している。 • 20世紀の部分は、ハインツ・ハイムゼートが書き足した。 • その他の代表作に、『哲学概論』、論文集『プレルーディエン』(『序曲』)、『近世哲学史』がある。 • 弟子にハインリヒ・リッケルトがいる。 • また日本の京都学派の代表のひとりである朝永三十郎は、ドイツ留学の機会を与えられ、ルドルフ・オイケンの元を訪ねた。 • だがオイケンの俗物ぶりに辟易し、計画を捨ててヴィンデルバントの門を叩き、彼に師事した。
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