【合戦解説】備後制圧戦 毛利・毛利派国衆 vs 尼子派備後国衆 〜 新生大内家を後ろ盾に毛利軍は備後支配を目論む 〜 <毛利⑲>
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<毛利シリーズ⑲話> • 時は戦国時代 後期 • 月山富田城攻めで大敗を喫した大内義隆は、武力での支配地拡大から、位階による権威でもって統治する文治政策を主に置くようになる。 • 文治派の筆頭 相良武任はこれを好機ととらえ 陶隆房といった武断派の力を削ぐ動きにでる。 • 陶は 文治派の描く政では 大大名 大内家として存続していくことは困難であると幾度と訴えるも 義隆の考えを変えるには至らず、それどころか 戦火が絶えない京から下向してきた 元関白 二条尹房、前左大臣 三条公頼といった公卿らを山口で庇護し、京と変わらぬ暮らしを与え 自らも公家の遊びに没頭する様になってしまった。 • この噂はたちまち 日の本中に広がり 山口に逃げ込む公家らの数は増え続け、あのイエズス会の宣教師 フランシスコ・ザビエルが 幾度と布教願いに山口を訪れ、義隆を「日の本の国王」と云わしめるほど 山口の街は繁栄していった。 • その繁栄は主には明や南蛮との交易で得た財でもって賄っていたが、それも次第に底をつき、庇護する公家らに銭は無く、そのしわ寄せは周防や長門の領民に向けられた。 • 重税がのしかかった民・百姓のくらしは困窮を極め、苦しむ民や寺社からの訴えは郡代を通し周防守護代 陶隆房に次々に届けられた。 • 陶は民の暮らしが第一であると 幾度と義隆に訴えるも聞き入れてもらえず、義隆への忠義の心は日に日に薄れていき 遂には謀叛を企むに至ってしまった • 陶は数年かけて調略の手を伸ばし、安芸の毛利、石見の問田に益田、長門の内藤、そして 豊後の大友までもを味方に引き入れ挙兵。 • 大内義隆や冷泉隆豊 相良武任といった将を見事討ち取り「大寧寺の変」と呼ばれる政変劇を成功裏に導いた。 • この陶隆房の謀叛に大きく関わっていたのが毛利元就であった。 • 陶の要請を受けた毛利軍は佐東銀山城や頭崎城、槌山城といった反陶派の大内直轄領を襲撃し、切取次第との約束通り それらの領土は毛利や毛利派安芸国衆のものとなり、安芸国の大半を毛利が支配することとなった。 • この大内家内の混乱状況は 日々 出雲 月山富田城の尼子晴久に届けられた… • • [ご覧になられる方へ] • ※個人制作となりますので誤字脱字等ありますことご了承ください • ※通説に基づきつつも一部ユキムラ流に脚色を加えた合戦解説となります • ※合戦や物語の出来事は諸説あります • ※制作の都合上全ての情報や登場武将を網羅してはおりません • ※登場人物名は改称時期に拘らずわかり易い表記で記載しております • ※演出時に大きな音が出る場合があります • ※2024年時点での歴史資料を元に作成しております • ※イラスト提供:史環 殿 • ▼オフィシャルグッズ販売サイト▼ • https://yukimura.theshop.jp/ • • #戦国時代 #合戦 #歴史
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